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20160218日(木)18時28分

共存は困難か?世代間の軋轢=時代の差

最近あるTV番組で見たのだが、生まれてきた息子に「宝(たから)」という名前を付けた親がいた。

親からすれば、子供はそういう存在なのかもしれないけど、子供が近い将来、自分の名前のその意味に気付いた時、どう思うだろう。
20年くらいして、履歴書に自分の名前を書く時、また、誰かから呼ばれた時、どう思うだろう。

名前に正解があるわけじゃない。
だが、名前は親に考える自由があるけれども、子供にはない。
だけども子供にとっては一生モノになる。変えたくても(簡単には)変えられない。

名前を付けるということは、親が最初に子供に注ぐ愛情だけど、もう少し言うと、最初で最後の最も(?)深い愛情なのかもね。子供育てた経験ないからわかんないけども(笑)。



本題。
実は僕と親は、同じ部屋(リビング)で寝ている。

それは昔からそうなのだ。
僕の部屋は一応あるんだけど、冷暖房がないため夏は暑く、冬は寒くてとてもいられる場所じゃない。だから仕方ないのだ。


だけども、昨晩はそのせいで災難だった。

さぁ寝よう。電気切ったぞ。目をつぶったぞ。いずれ眠りに就くぞ。
そんな時に親に声をかけられ、就活の話を迫られたのだ。
「●●(企業名)もあんで」と。

寝ようとしている時になぜそんな話をしようと親は思ったのか、僕にはよくわからなかった。
だから「今考えたくない」ということを伝えると、「あんた(僕)の今のペースでは就活は間に合わない」と言い出した。


…って言われたって、つい昨日就職部に行ってきたばかりじゃん、と。
そこで言われたこととかも既に親には話している。
とりあえず就職部の人からは、「(僕の場合は障害があり、障害者手帳もあるから)自分のペースで動けば良い」ということを言われたと。

だが実際僕は、自分なりに考えて動いているし、就職部の人も、「鈍い(正直もっと焦らないと間に合わない)時はそう言うから」と言ってくれているからね。
そこの人と、「結局、積み重ねてきたものが結果になるから、あとから慌てて動いても遅いし、少しずつやれることをやっていくしかない、先のこと考えて不安になっても仕方がない」というような話もしていたのだ。


何がわかるよ?
親といえど、昔と就活の仕方も、何より生きている時代そのものが大きく違うしね。

何より説明会すら始まっていない状況で(例外で、既に合説を始めているところはあり、そこには行ったが)、やれること準備してきたのに、現段階でそんなこと言われてもどうすることもできない。

親もピリピリするのはわかるが、正直今煽られたくなかった…。



――ここからは話がガラリと変わるが、世代間の軋轢って、「生きている時代が違うからしようがない」という言葉と、その事実の受け入れで解決できることが、案外多い気がする。(それがいつの時代の人間もみんなできないわけだけどね。)

例えば、50歳の上司Aが25歳の若い社員に叱責し、25歳の社員aは泣き出す。
そこで50歳のAが、「若い奴は扱いづらい(これだからゆとりは)…」なんて思うわけだよね。

このような話を何度か聞くと、世間のAと同年代の人たちも、「今の“若い子”はそうなのか。私らの頃は…」なんて言い出して、古い常識を押し付けてくるわけだ。

もちろん、それを「古い常識」で片付けるつもりはない。
泣いて良い場所と悪い場所があること、また、泣いて済む問題なのか、ということは、a自身がわきまえなくてはならないことだよね。


ただ、これって少し考えると、なぜこうなるのかって簡単にわかる。
Aからa、25の歳の差の人に対して叱責した、ということから、Aは、少なくとも25年は違う時代を生きていて、その常識を吸収(?)して生きてきたわけだ。
だからAの常識は、あくまで25年前のものなんだよね。
一方でaの常識は、Aよりも25年後のものなんだよね。

「どのようなことをしたら、どの程度叱責させ、どの程度のお咎めを受けるのか」
「叱責された側は、どの程度の叱責には耐えられて『当たり前』なのか」

別にこの例に限ったことじゃないけど、このような世代間の2つの常識に差があるから、「今時の若者は…」「今時の年寄りは…」ってなるわけだよね。
また、これらの常識には、どれが良くてどれが悪いのか、人々の解釈であったり、環境であったりで変わってくるものだから、そもそも正解はない、というのが正解だと僕は思うのだが、みんな正解は、“自分の生きてきた時代”にあると思っている。


これは僕が過去にブログで何度か話していることだけど、誰もその自分の生きてきた時代と違う常識を受け入れられないんだよね。
それは人間だから、なのか、日本人だから、なのか、あるいは僕の解釈が間違っているのか、そこまでは僕にもわからない。

ただひとつ言えることは、くだんのAとaの例であれば、「厳しく叱責したAが正しい」「叱責してもらえたことを前向きに受け止められなかったaが悪い」という結論以前に、「生きる時代が違う者同士は、そもそも打ち解け合うのが非常に難しい」。これがあるのを心に留めておくべきだと思う。
もちろん答えがどこにあるのかはその時その時で違うと思うけどね。
Aの生きる時代に答えがあるかもしれないし、aの生きる時代に答えがあるかもしれないし、それはなかなかわからないことだ。


それが会社や社会の構造、と言われてしまえばおしまいだけど、20年や30年、50年や60年も離れた時代を生きる者(違う常識の中で生きてきた世代)同士が、共通した「いま」の常識の中で生きていくって、正直無謀だと思うよ。そう考えたらね。
「無謀じゃない。共存できているじゃん?」と思うだろうけど、実際に世代間での軋轢は後を絶たないわけだからね。


僕はヘンに賢いから、たまにそういうことを考える。
だから普通の人以上に厭世したり、人に猜疑心持ったりしてしまって、暗く生きちゃうんだよ。

後先考えずフラフラ生きているけどもなぜか何とかなっている人。
ただただプライドが高く、自分の主張だけが正しいと思い、傲然とした態度で生きる人。
そういう人らがある意味羨ましく思うよ…。



以上、ィヨロシク!!



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